■ありんくりんレポート
★塩屋湾のウンガミを見学しました(2019年8月18日)
「塩屋湾のウンガミ」は毎年、旧盆明けの初亥の日に行われるのですが、今年は運良く休日でした。機会がある時(休みがあう時)にかかさず撮影目的で見学しているのですが、今年は違うアングルを狙って高台にある「塩屋農民公園」へ登ってみました。展望台からは木々が邪魔をして、思ったより今一でした。ハリーが始まるまで時間があったので展望台でノンビリしていました。また時折、小雨が降っていたので、展望所の東屋は格好の雨宿り場となりました。しばらくすると地元の方が登って来ました。塩屋のご長老(現区長の親戚、84歳)はお話好きのようで、色んなお話を伺う事ができました。以下に、ご長老から「塩屋農民公園」で聞いた話を箇条書きします。他にも面白い話を伺ったのですが・・・、それは内緒。結局、お話が面白過ぎて、写真は殆ど撮れませんでした(写真はいつものアングルで旦那が頑張りました)。
●塩屋のウンガミの由来
その昔、王朝に使えていた頭の良い女司書がいたそうだが、何かの理由で首里を追われる事になり、津波に居を移る事になった。津波の集落を歩き回り、塩屋湾の地形を見て頭の良い女司書だったので、塩作りを思い立った。引き潮の時に砂を集め、その砂を乾かし、またその砂を巻き、引き潮で砂を集め乾かし、またその砂を巻くを繰り返した。
その姿を集落の人々は遠巻きに見て、なにをしているのか不思議に思っていた。そのうち、浜辺で大きな釜でその集めた砂塩を炊き出した。カイを使って、こげないように。集落の女達はその姿に興味津々、塩を作っている事を知ると、太鼓と踊りで女司書の塩作りを励まし助けた。女司書が亡くなった後も、太鼓と踊りはウンガミの日にその女司書を讃えて継がれている。
●ハリーの由来
塩屋と根路銘、古宇利のウミンチュの間でどの集落が早いかハリーで競い合おうという話が持ち上がった。結いの浜で競い合いをしたが、気性の荒いウミンチュ、コースがはみ出したとか難癖をつけてはカイで殴ったりと血まみれの喧嘩になったので、ただちに取りやめ、各地域事に祭りとして行うようになった。今ではウンガミ祭りは各集落事となったが、塩屋、根路銘、古宇利と同じ日に行われている。
●ハリー船について
戦後、米軍が塩屋農民公園の山頂を占拠して、水タンクを建設、その周囲を隠すように建設用の渡し板を張り巡らした。米軍が居なくなった後にその板を剥がして、塩屋のハリー船を作成したらしい。
この塩屋のハリー船は三角の模様など特徴的なことから無形文化財になっている。普通は膝を立ててこぐのだが塩屋のハリー船は座ってこぐ。那覇のハリー船も塩屋の船を模倣しているらしい。那覇のハリー船は見せ物用なのでプラスティック(カーボンファイバー?)でできているらしい。最近?、津堅でこの塩屋のハリー船を作らせたのだが、見本を見せてはいたが、船の形が反り返り船の中央が低くなり過ぎていることから700メートルの距離をこいでるうちに水が入り危険になったそう(実際浸水することが度々起こった)。それで、漁港に頼んで監視船を出しているとのこと。今年は波が静かだったので、浸水はしなかったみたい。
●ウンガミの神様について
神様は世襲制ではなく、ある日突然下りてくるという言い伝え。若い娘が「最近良く眠れない」とか「食欲が無い」といった事がおこり、そのことを長に訴えると、ユタに聞いてみるようにと言われる。そこで、ユタが神だとお告げがあるとと新たな神となる。こう、お告げがあったのに断ってブラジルや他の場所で嫁いだ女は皆、目が見えなくなったという。お告げがあった人は、神として勤めなければならないらしい。ちなみに、男性も使え神を支える人としてユタから宣告されるという。何か神聖なものがその人に下りるらしい。それは誰だかはわからないという。
●ウンガミの翌日には
体育館に集まり女だけで太鼓と踊りをする。その昔、塩を伝えた女司書を太鼓と踊りで崇めたように、迎えいれ、送るのだという。
塩屋に神様を乗せたカゴをハリーで田港までお返しする。これは、塩屋だけが行う大事な仕事だと誇らしげにご長老が語った。
最後になりましたが、貴重なお話と有意義なひと時をご提供いただいた塩屋のご長老(うっかりお名前を聞きそびれてしまいました)に感謝申し上げます。本当にありがとうございました(文責;新田敦子)。 |